地歌は、主に江戸時代(1608~1868)の江戸中期以降に上方を中心に発達し、伝承されてきた三味線音楽です。
時代背景に沿って主な作曲者を選び考察します。
【目次】
江戸後期・・6.湖出市十郎. 7.峰崎勾当. 8.菊崎検校. 9.三橋勾当. 10.松浦検校 11.国山勾当. 12.石川勾当. 13.菊岡検校. 14.八重崎検校
幕末期・・・15.光崎検校. 16.吉沢検校二世. 17.幾山検校
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*江戸前期(1608~1700)
・寛永年間(1624~1645)を中心とする文化の寛永文化の中心は京都で、中世以来の伝統を引き継ぐ力と封建制を強化する江戸幕府への対抗とで、古典文芸・文化が盛んになりました。
1.八橋検校(1614~1685)
・八橋検校は、近世箏曲の祖で、自らの箏曲作品において箏組歌および段物を確立したとされます。
・江戸時代前期の音楽家。1624-1685年の頃、摂津で三味線の分野で活躍し名手でした。その他、箏、胡弓の名手でもありました。その後、江戸に出て法水から筑紫箏を学び、その後京都で活躍しました。
・箏の独奏のために、楽器そのものや演奏法の改良を行い、「段物」などの楽式の定型化を行うなど、現在の日本の箏の基礎を作りあげました。
・筑紫箏とは異なる半音を含む調弦による新しい箏伴奏歌曲(箏組歌)を創作しました。。
・器楽曲の「すががき」「りんぜつ」を改編して現行の「六段の調」「乱」などを成立させました。孫弟子に生田検校がいます。
〇作品~~「六段の調」、「八段の調」、「乱 (みだれ)」、
他に「菜蕗(ふき)」、「梅枝」、「四季の曲」 など
2.生田検校(1656~1715)
・生田検校は八橋検校の孫弟子で、組歌や段物を継承しました。
・京都で江戸前期から中期にかけて活躍し、筝曲生田流の祖として知られています。
・三味線を伴奏とする声楽曲の地歌に箏曲を組み合わせて、三味線と合奏できるように、角爪の創始や半雲井及び中空調子の考案、(スクイ爪)、などの技巧を取り入れ、演奏上の工夫を実際に進めました。
〇作品~~ 「思川(箏組歌)」、「五段(段物)」、
「小笹(三弦長唄)」
他に「砧(箏組歌・箏手付)」、
「十二段すががき(段物・三絃手付)」
*江戸中期(1700~1750)
・元禄時代(1688~1707)に、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心として発展した文化が元禄文化である。元禄文化は庶民的であったが、担い手は町人の出身ばかりでなく、武士階級出身の者も多かったようです。
・地歌においては、『「歌もの」―端歌、芝居歌もの、謡い物』の作品が多く盛んだったようです。
・また、三味線の器楽的発展の側面から見ると、箏曲発展に貢献した(八橋検校→生田検校→深草検校)の流れに沿って、三者共に三味線も名手であったことから、段物と砧物も、三味線で盛んに演奏されるようになりました。
3.岸野次郎三(1660~1720)
・元禄~正徳 (1688~1716) 頃活躍し、地歌の三味線演奏家で、京都祇園井筒屋の主人で歌舞伎の三味線方でもあり、地歌の芝居歌物の作曲で知られています。
〇作品~~「松風(古松風)*」、「吼噦(狐会)」、
他に「古道成寺」、「放下僧」、
「狐火(友人の赤穂浪士大石内蔵助の死を悼んで作ったもの)」
4.深草検校(1700?~1760)
・享保(きょうほう)(1716-36)のころ京都で活躍した地歌三絃家です。三味線演奏技術の発展に貢献したといわれています。
・手事物先駆作の北島勾当作曲「さらし」を現行のように改曲したり,「六段の調」や「みだれ」などに三絃手付も行なったりしました。
〇作品~~ 「丹頂の鶴*」、「六段の調*」や「乱*」の三絃移曲、
他に「さらし」
5.藤尾勾当 (1730~
・江戸時代中期の地歌演奏・作曲家で、尾張(現 愛知県)の人で、安永(1772~1781年)のころ活躍しました。
・代表作に富士太鼓、虫の音、八島(やしま)など謡曲に題材をえた作曲があります。謡い物作曲に活躍した三味線の名手でした。
*江戸後期(1750~1850)
・文化・文政期(1804~1830)を中心とする化政文化は、町人中心の文化といえます。江戸から発生し、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていきました。
・地歌においては、器楽的発展が進み、替手手付や多くの手事物楽曲が生まれました。
・この時期は手事物の最盛期といえます。
・大阪では、峰崎勾当(1750?~1801)→三橋勾当(1780~1832)へ と継承されました。 地歌手事物の大曲である以下の楽曲がうまれました。
・ 京都では、松浦検校(1750~1822)→石川勾当(1780~1850)→菊岡検校(1792~1849)へと継承され、現在、地歌箏曲として楽しまれる曲の多くが生まれました。
「松浦の四つ物」ー(宇治巡り、四季の眺、深夜の月、四つの民)
・これらの多くの曲に同世代であった八重崎検校(1776~1848)によって替手風手事の箏手付がされ、後世にまで楽しまれることとなりました。
6.湖出市十郎(1740~1800)
・江戸中期の長唄唄方で、江戸長唄の初代富士田吉治らに師事し、「黒髪」など独吟のメリヤス物を得意としました。晩年は大坂で江戸長唄をひろめました。
・メリヤス物とは、黒御簾音楽(下座音楽)の演奏手法の一つ。深い思いに沈み悲しく寂しい情感を漂わせる場面で演奏され、もの哀しい曲調から「滅入りやす」とも、また寸法を自由に伸ばしたり縮めたりできるので布地のメリヤスにたとえたともいわれています。
・1784年江戸中村座『大商蛭小島』で、伊東祐親の女辰姫が恋人の源頼朝を北条の息女政子に譲って、髪を梳きながら嫉妬の念に狂おしくなる場面で使われた曲が有名な「黒髪」で、大坂で地歌として流行しました。
〇作品~~「黒髪」
7.峰崎勾当(1750?~1810?)
・大阪で天明 (1781‐89) から享和ころ活躍した地歌・箏曲 の演奏家・作曲家で豊賀検校(1743-1785)の門下です。
・風格の高い端歌ものを多数作曲し、また手事物を大成し、名曲をいくつか残しました。手事物においては、手事が長大となり、歌よりも手事の方に比重が置かれ、転調が工夫され、三味線の技巧が複雑となり、地歌はいっそう器楽的に発展することとなりました。
・峰崎が大成した手事物を受け継ぐ後輩の三つ橋勾当がでました。その後手事物作曲の主流は大阪から京都に移り、松浦検校、石川勾当、菊岡検校らによって更に発展していくこととなりました。
〇作品~~端歌物―「雪」、「袖香炉」、「こすのと*」、「袖の露*」
その他「花の旅」、
その他に「翁」、「根曳の松の箏手付」
8.菊崎検校(1770?~1840?)
・大阪で寛政(1789~1801)の頃、活躍した地歌・箏曲の演奏家・作曲家で、峰崎検校とともに「手事物」を大成した代表者です。
〇作品~~「西行桜」
或いは「芸子三つ物」という。
9.三橋勾当(1780~1832)
・大阪で文化・文政期(1804~1830)の頃、活躍した地歌演奏、作曲家です。
*「松竹梅」、「根曳の松」、「名所土産」を「三役物」という。
いずれも調子変化の多い技巧的な大曲です。
10.松浦検校(1750~1822)
・京都で活躍した地歌箏曲家で、化政期(1804~1830)の三絃曲の代表的作曲家で京風手事物の開拓者とされます。
・「手事物(大阪の峰崎勾当や三つ橋勾当が完成させた地歌の楽曲形式)」を京都風に洗練させ、多くの曲を残しました。
・後輩にあたる石川勾当や菊岡検校や光崎検校に受け継がれ更に発展していくこととなりました。
・作品の多くが、八重崎検校、浦崎検校によって、箏手付がされて流行しました。
〇作品~~「宇治巡り」、「四季の眺」、「新浮舟」、「末の契」、
「新松尽し*」、他に「四つの民」
「松浦の四つ物」という。
・作風は大阪ものの雰囲気や手事の構成を残しつつ、京風な優雅さ、感覚的な洗練さがあります。「深夜の月」、「末の契」では情緒豊かな旋律の美しさが、「若菜」、「玉の台」では歌の節が追求さています。また「四季の眺」、「宇治巡り」、「四つの民」などではさまざまな転調があるのも特徴であります。
11. 国山勾当(1780?~1830?)
・京都で活躍した地歌演奏者・作曲者です。三絃の器楽的発展に貢献しました。
〇作品~~「玉川」、「八千代獅子の三下り三絃替手*」、
12.石川勾当(1780?~1850?)
・京都で文化-文政(1804-30)のころ活躍した地歌演奏者・作曲者です。三絃の名手でありました。不遇の晩年を送ったといわています。
・作風は同時代の作曲家の中でも風格の高さで群を抜き、高踏的、型破りで非常に長大な曲が多いのが特徴です。ことに器楽部である「手事」が長く複雑で、かつ難技巧を極めます。歌の節付けも凝っています。
・百人一首から衣に関する歌をとった「八重衣」、謡曲を題材とした「融」「新青柳」は、いずれも難曲で当初は演奏する人もなかったと言われています。「八重衣」、「新青柳」は,八重崎検校が,箏の手を付けて以来広まりました。
「玉川の替手」、「八段の替手」
13.菊岡検校(1792~1847)
・京都で活躍した地歌演奏者・作曲者です。
・松浦検校に続いて,京物の地歌三絃曲の名作を作曲。その多くは八重崎検校により箏の旋律が作曲され,両者の合奏は名演奏であったと伝えられます。
・松浦検校、八重崎検校、石川勾当らとほぼ同時期に京都で活躍し、三絃と箏の合奏の妙技を眼目とする京風手事物の全盛期を導きました。
〇作品~~「磯千鳥*」, 「今小町」, 「梅の宿*」, 「梶枕」, 「笹の露」,
「園の秋*」, 「茶音頭」,「舟の夢*」, 「ながらの春*」、
「御山獅子」, 「夕顔」、「ままの川* 」, 「けしの花*」,
14.八重崎検校(1776~1848)
・京都で化政期に活躍した代表的箏曲名演奏家・作曲家です。
・松浦検校,菊岡検校,石川勾当らの地歌作品に新しく箏の替手式旋律を加えて,箏・三絃の合奏の効果を高め合奏音楽として、更に音楽的価値の高いものにして京風手事物の全盛期を築きました。
・八重崎は段物の「乱」、「八段(京乱,二重八段ともいう)」 の替手も作曲したと伝えられています。
・門人には、光崎検校、葛原勾当、松坂春栄らがいます。
〇作品~~箏手付ー八橋検校の作品・・「みだれ」の替手、
「八段の調」の替手
ー峰崎検校の作品・・「越後獅子」
ー三つ橋勾当の作品・・「根曳の松」
「四つの民」、「玉の台*」
「桂男」
*幕末期(1850~1868)
・江戸時代中期以降、地歌、箏曲、胡弓楽は合奏のために共通の曲を持ち、一体化し、後期には不可分の関係となってきました。そして江戸末期以降、それまで地歌に便乗する形で発展して来た箏曲が、今度は先に立って発展したので、地歌は箏曲の一環にあげられることともなってきたが、三絃音楽として作られた曲が本来的な地歌であります。
・数多の曲種(端歌物・芝居物・謡い物・手事物・獅子物・段物など)を生んで発展した地歌であったが、幕末期には急速に創造力を低下させ、やがて伝承時代へ入っていきました。
・一人の作曲者が、三味線と箏の両方も作曲するようになった。
・八重崎検校は三味線曲を箏曲化し、京風手事物を発展させることとなりました。光崎検校は三味線を切り離した新しい箏曲の確立を目ざし、組歌と段物の合体「秋風の曲」を作曲し,幕末の箏曲復古運動の旗頭として吉沢検校にも影響を与え、吉沢検校の箏組歌形式の純箏曲の「千鳥の曲*」等の作品がうまれることとなりました。
・「地歌」の三味線音楽の歴史は、いろいろな形式の曲が、時代を追って単に新しく創作され続けてきたというだけではなく、同じ曲の演奏の形式も、時代を追って、さまざまに発展してきました。その背景の中、様々な作曲家が影響しあい、伝承される事で名曲が残されてきていると感じます。
15.光崎検校(1800?~)
・京都の人で、江戸時代後期の地歌・箏曲家・作曲家です。八重崎検校の門下です。
・地歌三味線音楽の作曲や演奏技巧の開発が頂点であったこの時期に、箏が堪能だった光崎は、一つの曲で三味線、箏の両パートを作曲(「桜川*」など)したり、三絃に従属しない箏のみの音楽を再び作り出した。
・箏曲の復興へと「秋風の曲」(組歌と段物の合体)・「五段砧」(箏の高低合奏)を作曲しました。幕末の箏曲復古運動の旗頭として「千鳥の曲」の作曲の吉沢検校に影響を与えました。
・京風手事物の作曲も多くあり、「桜川」、「三津山」、「千代の鴬*」、「七小町」、「初音」、「夜々の星」、いずれも端正かつ理知的、気品と風格があり、演奏には高度な技術が要求される曲ばかりであります。
〇作品~~「桜川」、「三津山」、「千代の鴬*」、「七小町」、
「初音」、「夜々の星」
「五段砧*」、「秋風の曲」
「夕辺の曲」―(箏組歌『菜蕗』の打合せ曲として作曲された。)
16.吉沢検校二世(1808?~1872)
・尾張の人で、江戸幕末期に名古屋の名士音楽家として活躍した盲人音楽家(地歌三味線、箏曲、胡弓、平家琵琶演奏家、作曲家)です。1862年以後京都に移住し、光崎検校の門下生でもあります。
・地歌・箏曲・胡弓および平曲を習得し、才能豊かで各分野で、業績を残しました。
・幕末期の復古的な精神の影響も受けながら、古い時代の箏曲である「組歌」や雅楽の調弦法をとり入れた純箏曲の「古今組」「新古今組」をはじめとして、箏本位の曲を多く作曲しました。これらは箏曲本来の気品と雅楽的な古雅さを備え、一方で音楽的にはより自由な展開をさせ、近代的ともいえる印象的描写性もみられ、独自のスタイルを確立しています。
・平曲の演奏,伝承も行なっていた、彼の地歌作品(「花の縁(えにし)」「玉くしげ」「夏衣」)の中にも平曲の節回しの影響、あるいは応用と見られる部分がある。また、「玉くしげ」では、三味線、箏、胡弓の三パートをすべて一人で作曲しました。
・胡弓においても多くの作品があり、特に「千鳥の曲*」は胡弓の曲、また箏の曲としても広く知られています。この曲を一つの転換点として、明治以降の日本音楽の流れを明治新曲へと方向づけることとなりました。また、「千鳥の曲*」に見られる海辺の描写的表現は近代的な印象的描写は、後世の「春の海*」を予見させられるかのようです。
・幕末期の箏曲における吉沢検校の業績は実に多大で、彼の箏曲には復古主義的な面が濃厚に見られますが、本来の地歌三味線に加え、さらに箏や胡弓に新たな作曲表現の道を見いだし切り開いたと考えらます。
〇作品~~箏・古今組―「千鳥の曲*」、「春の曲*」、「夏の曲*」、
・新古今組―「新雪月花」、他3曲
~~胡弓―「蝉の曲」
~~地歌ー「花の縁」、「夏衣」、「玉くしげ」
17. 幾山検校(1818~1890)
・江戸出身ではあるが、京都で幕末-明治時代に活躍した地歌・箏曲家で京風手事物作曲家として最後の検校といわれています。
・光崎検校と同様に、箏・三絃共に自らの作曲により、パートが、緊密化され、合奏音楽としての完成度が高くなってきました。
・「萩の露」(箏・三絃どちらも自ら手付)は、彼の芸術性が集大成された京風手事物地歌の最後の曲といえます。
〇作品~~ 「打盤」、「横槌」、「萩の露」
「磯の春」、「新玉鬘」、
「川千鳥*」(北村文と共作)、
「影法師」(北村文と共作)
★明治以降
・明治初めは,明治政府の西洋化及び社会的変化・気運の影響もあり、箏曲が独自に発展してゆき地歌の作曲は少なくなっていきました。
・「歌いもの」の一つとして発達した地唄には、端歌・芝居歌・謡い物などでの形式で、江戸中期に作品が多いです。
・地歌の中で器楽的要素の多い楽曲は、箏曲を取り入れた江戸中期から段物・獅子物から始まりました。
・江戸後期に替手物との合奏も始まり、手事物楽曲の最盛期となっていきました。
・幕末期には、さらに三絃と箏の両方とも一人の作曲家による作品が多くなり、合奏形式も三曲(箏・三絃・胡弓)が増えることとなりました。
・明治に入ると、三曲は、こと・三絃・尺八による演奏がふえ、三味線から離れた箏伴奏だけの明るい音調の明治新曲が、生まれました。地歌は、伝承の時期となっていきました。
・さらに後々には、古典楽曲への宮城道雄(1894~1956)による箏手付(「尾上の松*」、「吼噦*」、「石橋」)や唯是真一(1923~2015)による移曲(箏→三絃)の「五段砧*」なども生まれました。
*「地歌」の三味線音楽の歴史は、いろいろな形式の曲が、時代を追って単に新しく創作され続けてきたというだけではなく、同じ曲の演奏の形式が、時代を追って様々に発展をしてきたようです。今では、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲も増えてきていますので、多様な楽しみ方となることを期待しています。