地歌とは、江戸時代に上方を中心に 三味線音楽の中で最初にうまれた芸術音楽で、上方において「地元(上方)の三味線音楽」という意味で地唄(地歌)と呼ばれるようになったと言われています。弾き歌いによって、家庭や社交場の座敷で楽しまれた室内音楽で、多くの三味線音楽の祖であり、義太夫節など各派浄瑠璃や長唄も、もともと地唄から派生したとみなされます。それ故に、「歌いもの」の一つとして発達した三味線歌曲・地歌は伝統的な声楽としての側面も持っているが、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲も少なくなかったと言えます。
三味線の誕生には、琵琶法師が関わっていましたが、味わい楽しんだのは世間一般の人で、庶民の楽器として普及しました。そして、現代の流行歌のように芸妓・法師・市井の粋人が、ともに楽しみ、素人の作詞・座敷舞も盛んにつくられ、京阪地方において検校・勾当といった盲人音楽家によって作曲され、後世に残る作品が生まれました。
一方、箏曲においては、江戸前期から八橋検校→佐山検校→生田検校へと器楽的発展があり、その流れから三味線においても箏→三絃(六段・乱)、尺八→三絃(八千代獅子)など移曲がはじまり、異種の器楽合奏へと発展しました。
さらに三絃と箏との合奏が始まると、三絃楽曲の器楽部分においても、江戸後期には、替手合奏また「手事物」楽曲の作曲へとつながりました。
大阪では・・・峰崎勾当(1750~1800)→三橋勾当(1780~1832)へ
京都では・・・松浦検校(1750~1822)→石川勾当(1780~1850)→菊岡 検校(1792~1847)へ
などの活躍で多くの地歌箏曲が生まれました。そこには箏の替手風手付をした八重崎検校(1776~1848)の力がありました。
その後、幕末期に入ってからは京都の光崎検校(1800~1858)→幾山検校(1818~1890)の活躍の時となりました。
また、江戸後期から器楽的発達をしてきた「手事物」に注目されることも多くなっていきました。さらに明治維新以降は西洋音楽の影響を受け、箏曲中心の明治新曲が、生まれる事となります。
ここでは、三味線歌曲としての「歌もの」と三味線器楽的発展曲としての「器楽もの」とに分けて地歌の変遷を考察します。